【苦痛のない人生があるとしたら喜ぶだろうか】
私たちは、だれしも「人生を安楽に送っていけたらいい」と思い願っている。
誰だってできれば痛い目には遭わずに済ませたい。
これは人情というものだ。
だがしかし、苦痛のまったくない人生があるとしたら、私たちはそれを喜ぶだろうか。
今、苦痛にさいなまれている人は、苦痛のない人生を願うだろうが、苦痛のない人生を送っている人にとっては、苦痛のある人生のほうがより輝いて見えるに違いない。
人間は贅沢なものだから、必ずそう思うと断言できる。
さらに、もし人生に苦痛がなかったならば、人間は多分その安楽な生活のアームチェアの上で眠り込んでしまって、自分を磨くことを忘れてしまうに違いない。
そして、能力的にも現状のままで、そのうち退化してしまうだろう。
結局、人生は苦しみに満ちているからこそ、その苦しみから逃れようと必死にもがくことになり、そのことによって人間は自分の中に潜在している様々な能力を引き出すことができ、鍛え上げることができるのだ。
つまり、苦痛という“提婆達多”がいなければ、人生は発展もしなければ、進歩もしないということだ。
だからこそ、人生の苦痛には感謝しなければならないのである。
釈尊もこのことを次のように言っている。
「提婆達多という良い友人を持ちえたために、私は菩薩として六つの徳目を完成し、無料の衆生を悲しみ、その苦しみを見抜き、喜びをともにし、一切の恩讐(情けと恨み)を捨て去る心を身につけた。また、仏としてのすべての吉相・福相を得、特に金色に輝く身となり、この世のあらゆる物事を正しく見通す大きな英知と、何者をも恐れはばかることなく法を説く勇気と、衆生を暖かく抱いて教化するための徳業を得、仏のみがもつ優れた特質をもつようになった。自由自在な神通力を備えることができたのである。こうして私が悟りを得、広く衆生を救うことができるのも、すべて提婆達多というよい友人のおかげなのだ」
釈尊ももし提婆達多がいなければ、たぶん悟りを開くことはできなかったのではあるまいか。