我々に襲いかかる危機

【地球環境に対する破壊】

 地球環境に対する破壊は、人類の大量死に値する。

 

 環境破壊はさまざまなファクターが絡み合って複雑な様相を呈しているが、その一部を記してみよう。

 

●工業生産活動の進展による炭酸ガスの大量発生と、それによる地球の温室化。

 

 このために気温が上昇し、気候も変わり、農地が砂漠化し、ひいては食糧危機につながる。

 

 

森林伐採による酸素供給源の減少。

 

 地球の酸素の供給源は、80%が赤道周辺の密林地帯に存在している。

 

 これを先進国などの国が伐採していくので一年に九州プラス四国の面積の森林が消えてなくなってしまう。

 

 このため20年後には空気中の酸素は少なくなってしまうだろう。

 

 酸素が減れば炭酸ガスが増え気温が上昇し、森林の砂漠化のも拍車がかかる。

 

 ただこれらも、危機のほんの一端にしか過ぎないのだ。

 

 

末法の終焉の知らせ

成長の限界

 私たちは今、高度情報化社会という新しい社会に突入している。

 

 この高度情報化社会の中では、あらゆる便利な情報が即座に得られ、生活はますます快適に便利になると思われている。

 

 こうした科学技術の進歩によるバラ色の夢がある一方で、私たちの心はひどく暗い絶望感に包まれている。

 

 たとえば、このところ破滅予言ブームが隆盛を極めているのはこれからの私たちの社会が決して希望に満ちたものではなく、かえってこれまで人類が経験したこともない絶望という危機に直面していることを示すものだろう。

 

 ノストラダムスの「一九九九年地球破滅説」が日本に紹介されたのは一九七三年のことだった。

 

 以後、“破滅物”と呼ばれる出版物やテレビ番組は、現れては消え、今なお頻出している。

 

 この一九七三年前後は、歴史的に見てもかなり重要な時期であった。

 

 たとえば、前年の七二年には、スウェーデンストックホルムで地球環境会議が開かれ、地球環境の悪化が注目されるようになった。

 

 また同じ年に、ローマクラブ(世界賢人会議)の出版した『成長の限界』が世界中で四百万部も売れベストセラーになっている。

 

 この本は、「このまま経済成長が続くと、やがて人類は破滅する」ということを述べたものである。

 

 人類はここにきて、ようやく近代合理主義のゆきづまりを感じるようになったのだ。

 

 しかし、これはある意味ではまだ序の口だったのではないだろうか。

 

 八〇年代に入ると状況はますますひどくなっているのだ。

 

 校内暴力や家庭内暴力が騒がれるようになったのは八〇年代に入ってからだ。

 

 生徒が教師を殴るとは、二〇年前まではよほどの非行少年しかしなかったことである。

 

 そして、息子が親を殴り殺すなどは、つい五、六年前でも考えられないことであった。

 

 学校教育がおかしい、親のしつけが悪いとさまざまな意見が戦わされているが、教育制度をいじくりまわしたところで、状況はどこまで変わっていくものだろうか。

 

 やはり問題はもっと本源的なところにあるのではないかと思う。

 

 つまり、今あるさまざまな動きは人類が大いなる危機に直面していることの一端ではないのか。

 

 もうすぐ末法の世は終わりに近づいているということが、こうしたさまざまな悪い現象を引き起こしているのではないか。

 

 

インドの詩人タゴールの予言

【この予言だけははずれてほしかった】

 ダーウィンの理論は自然界の一面の現象のみを捉えたものであり、一見科学的な装いを凝らしているものの、西洋の思潮である力崇拝と近代合理主義に合致するように真理を組み替えたものである。

 

 自然界には確かに弱肉強食の闘争はあるけれど、もう一面でたがいに協調して助け合っているということを忘れてはならない。

 

 このダーウィンの思想も、結局、キリスト教的自然観の影響を受けた結果なのだろう。

 

 その点、インド的自然観を持つ人の歴史観は賢明で、すべてを見通している。

 

 たとえばインドの詩人タゴールは、1941年、死の直前に次のように予言している。

 

「西方の心理の奥底に眠っていた暴力の精神は、ついに奮い立って(インドの)人間の精神を冒涜した。運命の歯車はいつの日かイギリスにせまって、インド支配を断念させるであろう。だが、彼らは立ち去る後に、どんな姿のインドを、どんなにか無残な惨めさを、置土産にすることであろうか。彼らの数世紀にわたる統治がついに枯れるとき、何たる泥土と汚物の荒廃地を彼らは後に残していくことだろうか」

 

 このタゴールの言葉は、抵抗の詩人としての最後の抵抗であったかもしれない。

 

 しかし、残念ながら、彼の予言は当たってしまった。

 

 タゴールが死んで6年後、インドはイギリスの支配から独立することができた。

 

 しかし、それは名をとって実を失った独立であった。

 

 イギリス軍が去った後には、飢餓という無惨な状況が置き土産にされたのだ。

 

 そして今なおインド人の約半数に当たる3億人の人間が飢餓であえいでいるのである。

 

 この予言だけは、はずれてほしかったと思うのである。

 

 

地球を包み込む末法の時代

【優勝劣敗論】

 釈尊の大予言は、日本やアジア地域だけに当てはまるものなのだろうか。

 

 それは大間違いだ。

 

 西洋の歴史ともちゃんと符合するのである。

 

 ざっと駆け足で実証してみよう。

 

 ヨーロッパで今から五百年前といえば、ルネッサンス期に当たる。

 

 この時から日本と同様に合理主義的な思潮が芽を出し始めている。

 

 そして、十七世紀には、近代合理主義が成立し、そのために科学技術が飛躍的に発展した。

 

 科学技術が発達したのは別に悪いことではないといわれるかもしれない。

 

 確かに科学技術の発達は、様々な人類の夢をかなえてくれてきた。

 

 しかし、こういうことも考えていただきたい。

 

 ヨーロッパには古くから「力崇拝」の伝統がある。

 

 その「力崇拝」の思想と、近代合理主義が結合すると、大変な結果になってくるということである。

 

 たとえば、十九世紀にダーウィンは進化論をとなえた。

 

 だがこれは裏を返すと、優勝劣敗論である。

 

 つまり弱い者は強い者の支配に従うのが天の摂理だというのである。

 

 この学説の直接の影響かどうかわからないが、現実にこの学説が現われてから、アジア・アフリカの諸民族に対する侵略と弾圧が正当化されたようである。

 

 1870年代には英仏を先頭に、欧米列強の侵略競争が激化している。

 

 その結果、第一次、第二次という世界大戦の悲劇が生まれてしまったのだ。

 

 もうひとつある。

 

 マルクス主義も結局は力崇拝と近代合理主義が結びついたものであった。

 

 その結果、スターリンを始め多くの独裁者を生み出しただけでなく、ハンガリーチェコスロバキアアフガニスタンなどは武力によって自由を奪われてしまったのだ。

 

 西欧文明のゆきづまりは、日本だけではなく西欧も、いや全世界が末法の時代に入っていることの証明に他ならないのである。

 

 

末法の時代に何が起きるか

【利己的で激しく衝突しあう時代】

 こうして二千年が過ぎ、釈尊の予言した「末法の時代」が現実にやってきた。

 

 この時代は西暦千五百年くらいから始まる。

 

 日本で千五百年代といえば、まず思い出されるのは、それがちょうど戦国時代に当たるということだろう。

 

 まさに末法の時代の到来を告げるように世の中は麻のように乱れていた。

 

 そして、織田信長にいたっては、比叡山を焼き討ちし、仏教に対して遠慮なく迫害を加えているほどだ。

 

 それなら、江戸時代はどうか。

 

 仏教への迫害などなかったではないか、と反論されるかもしれない。

 

 確かに江戸幕府は寺院を保護した。

 

 しかしこれは形式的なものであって、仏教の新しい教義の樹立は禁止されていた。

 

 結局これは仏教を封じ込める政策に他ならない。

 

 そのため、仏教は発展がストップさせられ、形骸化の一途をたどってしまったのだ。

 

 また、重要なのは、この時期に商業の発展とともに合理主義が台頭してきたことである。

 

 そのために民間での信仰心はどんどん薄くなり、仏教は骨抜きにされていったのだった。

 

 そして、明治になって、西洋から近代合理主義が流入すると、ますます仏教は時代の遺物と化してしまう。

 

 さらに第二次大戦後、すっかりアメリカナイズされ、近代合理主義にどっぷりと浸ってしまった日本では、大半の人が仏教の真理などもはや思い出しもしない状況になってしまった。

 

 末法の時代を、「闘諍堅固時」と呼ぶ。

 

 これは、形式的な宗教さえほとんど無視され、人々はまったく利己的になって激しく衝突しあう時代であるということである。

 

 今、まさにそのとおりの状態になっている。

 

 

多くの塔寺はなぜ建立されたのか

【信仰のステイタスシンボル

 像法の時代の後半、つまり第四期の「多造塔寺堅固時」はどうだったのだろうか。

 

 この時期は文字どうり、仏教の精神やそれが教える真理を学ぶというよりは、信仰のステイタスシンボルとして、数多くの塔や寺を建てるという時代である。

 

 現実の歴史もこれにピタリ符合している。

 

 その始まりは、九世紀後半から十世紀にかかっているが、これは唐の末期である。

 

 このとき、中国では仏教はすでに衰退期に入っている。

 

 ただし、この時期には、中国の周辺地域で仏教が興隆し始めている。

 

 たとえばインドシナ半島では、壮大な寺院が続々と建立された。

 

 有名なのはカンボジアアンコール・ワットとアンコール・トム、そしてビルマのバカン遺跡である。

 

 さらに、ビルマの首都ラングーンの西北約30キロのところに、26平方キロの広大な草原があるが、ここに仏塔と仏寺を合わせて五千を数える遺跡がある。

 

 今日では人の住まない死の都となってしまったが、その中には高さ50メートルを越える仏塔がいくつもある。

 

 まさに、「多造塔寺堅固寺」すさまじい有様を想起させる風景を、今でも私たちは目のあたりにすることが出来るのである。

 

 日本でもこの五百年間は他の東南アジア地域と事情は同じようなものであった。

 

 平安時代を過ぎ、鎌倉仏教が登場した時代に当たるが、このとき親鸞道元日蓮の三大師が現われ、日本の仏教もそれまでの貴族仏教から民間仏教へと変質していく。

 

 そのために各地で庶民が続々と寺院を建てるようになったのだ。

 

 しかし、寺院は数多く建ったものの、室町時代以降、その信仰はだんだんと形式的なものに堕すようになってしまったのだった。

 

 

大乗仏教時代の背景

【『西遊記』が生まれたのもこのころだ】

 アショカ王が統一したインド国内での仏教興隆、最初の五百年から二百年たった一世紀に、大きな変化が起こる。

 

 大乗仏教の勃興だ。

 

 ちょうどこれは第二の五百年間(禅定堅固時)に当たる。

 

 これは、「禅定によって思索し、新しい時代に即応するように教えを工夫し、その教えをしっかり守る」という時代である。

 

 大乗仏教の登場は、まさにこの言葉どおりのことなのだから、釈尊の予言は見事的中しているわけだ。

 

 ではなぜ、大乗仏教が登場したか。

 

 その理由は、当時の僧侶が、自分が救われることのみを考え、教えの規則ばかり守ることを考えるようになったため、多くの人々を救う目的で積極的な実践活動が必要とされたからだった。

 

 こうして釈尊の教えの本流が大乗仏教によって堅持されてから、二百年後、大乗仏教も枝葉が広がってしまったので、竜樹菩薩が現れて、改めて経典をまとめ、大乗の教えを守り抜いた。

 

 そして、それから二百年後の五世紀には、世親が出て、大乗仏教の流れを絶やさなかったのである。

 

 これで釈尊入滅後の千年が過ぎた。

 

 ところが、このころから仏教の本拠地インドでは仏教が衰退へと向かっていく。

 

 そして、像法の時代へと移っていく。

 

 この前半の五百年間を「多聞堅固時」と呼んでいるが、これは何を意味するのだろう。

 

 仏教が興って千年も経つと、人々の仏教への熱意も次第に薄らいでくるだろう。

 

 しかしそれでも仏教を学ぼうとする風潮はまだ盛んで、もっとさまざまな見地から仏教を研究してみようという気運もあるはずだ。

 

 だから多く学ぶという意味で多聞堅固時と呼んでいるのだ。

 

 では現実の歴史はどうだったのだろうか。

 

 インドでは仏教が衰退してしまったと述べた。

 

 これは四世紀ごろからで、六世紀に入るともはやインドでは大乗仏教に関する著述は消え去り、かわって「密教」が現れる。

 

 しかも八世紀には、すべての仏教の著述が途絶えてしまった。

 

 ところが、不思議なことに、仏教は中国を中心に中央アジアから日本にまたがる広大な地域で栄えるようになったのだ。

 

 そして、各地で仏教の経典の内容に関して、比較検討が盛んに行われるようになったのだ。

 

 たとえば天台大師は釈尊の説法には五つの時期があったとして、多くの経典を研究し、法華経を最高の経典と位置づけている。

 

 天台は隋の時代の人だが、その後七世紀、唐の時代に入っても、前代に続いて多くの学僧が多くの経典を訳し、研究を積み重ねている。

 

 西域に仏典を求めて旅をする冒険譚『西遊記』が生まれたのもこのころだ。

 

 また、日本仏教伝来もこのころで、聖徳太子によって、日本の上層階級を中心に仏教が広められていく。

 

 この五百年間も、釈尊の予言どおりに推移したのだった。