なぜ「法施」が必要なのか

六波羅蜜と呼ばれる積極的な実践活動】

 ところで、法華経を含めて大乗仏教では「六波羅蜜」と呼ばれる積極的な実践活動をすすめて入る。

 

 これは真理を悟るための修行の一環としてあるとともに、自分の人生を変える活動ともされている。

 

 その実践活動の第一番目に、「布施」ということが説かれている。

 

 それほど「布施」は重視されているわけだ。

 

 これは何も仏教に限られたことではない。

 

 キリスト教にも布施はあるし、イスラム教の『喜捨』(サガート)も同様の意味である。

 

 とくにイスラム教では、サガートは信仰に五つの柱のひとつとなっているくらい重視されている。

 

 では、布施あるいは喜捨とは何か。

 

 一般的に言えば、他人へ自分の金品を差し上げることである。

 

 この金額については、宗教や宗派によって違うが、収入の十分の一ないし四分の一くらいというのが多い。

 

 このように書くと、「私の収入は生活ギリギリだ。

 

 とてもそんな余裕はない」と、しり込みされてしまいそうだが、ちょっと待っていただきたい。

 

 布施は金品を差し出すことと書いたが、もっと噛み砕いて言うと、必ずしも金品に限らないのだ。

 

 布施の中には、金や物を与える「物施」のほかに、「知施」と「法施」というものがあって、むしろ後の二者のほうがより重要とされている。

 

「知施」というのは、相手が必要とする知識を与えることであり、「法施」というのは、相手の心を救ってあげることだ。

 

 なかでも重要なのは、なんと言っても「法施」である。

 

 これは相手に無限の力を持つ実相の存在を知らせ、人生の真理をわからせる事だから、金品を施すよりもはるかに大きな徳を施したことになる。

 

 なぜなら、相手にこの偉大な真理を知らせてあげれば、その人は、金をもらうよりははるかに幸せになれるからだ。

 

 だからこそ、様々な宗教で、「布教」ということが重要視されるわけだ。

 

 しかし、もし布教の根本的な精神を忘れて、単にその宗教団体の勢力拡大のために、勧誘(普通「折伏」という)するなら意味はない。

 

 あくまでも他人の幸せのために、奉仕するのが「布施」であり、「布教」なのである。

 

 このように「布施」は、たとえ自分に差し出すだけの金や物がなくても、同様なことができる。

 

 物施が無理なら法施でもいいし、知施でもいい。

 

 自分の力の及ぶ範囲において、できるだけのことをすればいい。

 

 他人のために尽くすことが自分の成功に繋がるからといって、無理なことをする必要はないのである。